金網フェンスの向こう側にあったホームレスの棲家は、整理整頓されていて、ホームレスの几帳面さが伝わってくるものであった。手紙の内容は、
『住むところがなければ、ピアノ倉庫の事務室に寝泊まりして、ここの管理人をしたらどうでしょうか。給料は国民年金程度で一ヶ月五万円支払います』
斉藤は、金網フェンスの向こう側にある青色小型冷蔵庫の上に手紙を置いた。結局、ホームレスは姿を現さなかった。
私は二階の事務室に案内してもらった。白いピアノを見た斉藤が、疲れを癒やした部屋だ。事務室には、キャスター付き机が無暗に多かった。医療用具の滅菌会社が置いていった物のようである。寝泊まり用のソファーベッドがあった。斉藤は、火鉢で魚を焼いて飯を食い、このソファーベッドで寝るのであった。
「オレ以外は、ここに泊まりたがらないんだ。気味が悪いって言うんだよ」
私も、この寂しい建物に一人で寝泊まりすることを想像したら、やはり他の普通の人と同じように気味が悪かった。
我々は帰るために建物の外に出た。小雨が相変わらず降っている。斉藤は建物の戸締まりをした後、何かを思い出したように早足で歩いて行った。
「あー、取られてる。チクショー」
彼は地面を見て言った。
「フキノトウが誰かに取られてるんだ。今日あたり、摘もうと思ってたのに」
彼の足元に畳一枚ほどの緑地があって、フキノトウが群生していた。そこは道路から少し入った、明らかにピアノ倉庫の敷地だった。誰かに取られた、という彼の発言は正しいのだ。
斉藤は数日前に仕事でここに来た時、フキノトウの発育具合をチェックしていた。彼は極貧の頃、野草を採って飢えをしのいでいたので、今でも普通の人よりも草がはえた地面をスルドク見て生きている。川べりや土手などの取っていい野草を、いつでも持ち帰れるように、彼の車にはコンビニ袋が常備してある。
私はJR某田舎駅に送ってもらうために、斉藤の軽自動車に乗った。ピアノ倉庫を出発してすぐに梅の木畑があった。斉藤が運転しながら言った。
「ここの梅の木は、全部オレが手入れしたんだよ」
以前は、梅の木の枝が伸び放題であったらしい。聞けば、梅の木畑の所有者が死亡し、手入れをする者がいなくなったという。荒れた梅の木畑を見かねて、斉藤は所有者の親族に、無償で梅の木の手入れをしたいと申し出た。親族は快く了解した。
「手入れをしたら見事に梅がなってさあ。収穫して所有者の親族に持って行ったら、すごく喜ばれて、半分オレにくれたんだ」
梅の木はスッキリした枝ぶりで立ち並んでいた。
「その梅でさ、梅酒を作ったんだ、旨いぞー。今度あげるよ」
「おー、ありがとう」
斉藤というのは、たまに会うと、それまで貯まった体験談がおもちゃ箱をひっくり返したように、次から次へと飛び出してくる男である。(了)
追伸 ここに登場した斉藤について、自著の『おとなしい豚』電子書籍版の中に詳しく紹介している。今より若い頃、凄く貧乏だった頃の彼の生活ぶりについてだ。
居酒屋にて彼と彼の娘が、皿に残った肉の脂身一切れを取り合って大立ち回りを演じた話や、彼が野草をおかずにして飢えをしのいでいた時分、彼はトラックの荷台からカツオが一匹地面に落ちたのを見つけて、必死で拾い家に持ち帰ったら家族に大喜びされた話などなど・・・。斉藤が気になる方、斉藤が心配な方、また斉藤を応援したい方は是非お読み下さい。