泣き捨て地蔵 1 宮田のエッセイ館

泣き捨て地蔵
泣き捨て地蔵 1

 私は幼い頃の一時期、祖母から岩手県遠野市に伝わる民話を聞いて育った。就寝の床についた祖母の布団に潜り込み、語ってもらうことが楽しみだった。夜になると、あの不思議な世界に入って行きたくなるのだ。不思議な話は、次に聞かせてもらえば不思議が解けるような気がして、せがんで語ってもらうのだが、話はいつも不思議のままだった。同じ話を何度聞いても、祖母の語りに引き込まれた。

 遠野で生まれ育ち、五〇歳を過ぎて初めて故郷を離れた祖母の話し言葉は、元来のイントネーションや訛りが残っていた。

「なんぼしたって」

 いくらなんでも、という意味の方言である。日常生活において祖母がよく言っていた。何かというと、すぐに「なんぼしたって」であった。高低の大きな揺らぎをもって祖母の口から発せられていたこの方言は、まるで聴きなじんでいた音楽のように私の耳に焼き付いている。

「なんぼしたって」のみならず、祖母の方言は、声の揺らぎに感情が塗り込められていた。私は生まれた時から、そのような祖母の話し言葉に馴染んでいた。

 布団の中で民話の語り部となった祖母の語りには、方言特有の揺らぎに加え、長い間(ま)があった。

 

「だんれもいないはずの座敷から・・・」

 

「ぼそぼそっ・・・ぼそぼそっ・・・」

 

「子供の声が・・・」

 

「聞こえてくんだ」

 

 次の言葉が待ち遠しい長い「間」の中で、想像がかき立てられる。見てもいないのに座敷の景色が現れ、聞いてもいないのに子供の高い声が聞こえる。座敷わらしの話を聞く度に、かき立てられた想像が現実夢のような光景を目の前に生んだ。

 

「そーっと座敷を覗いて見たらば・・・どっから入って来たんだか・・・」

 

「小っさな男の子が・・・ちゃんちゃんこを着た男の子が、ふたーり・・・遊んでんでねぇか・・・」

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