兄の死   15 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   15

 家に入るために用意された目の前の空間。兄弟ゆえに感じる兄の意図。まだ私に残っている家族の情が動いて、家に入ろうかという気持ちが起こった。

 想像の中で、玄関の敷居を跨(また)いで家に入った私がいる。その時、角材を手にした兄は私を歓迎して、こちらを殴りそうな気配が消えている。

 とはいえ、この家にはびこる人の神経を逆なでする言葉や、自身を虚飾するための兄の嘘言、これらを聞かされる予感を抱いて私は家に入っている。予感したそれらのものは、これまで私の中に凝縮している兄に対する怒りを爆発させるスイッチである。玄関に出てきた兄の異常な姿によって、スイッチは入りやすい状態になっている。ちょっとした兄の言動によってスイッチが入る。私は一瞬にして全身が火に包まれたような怒りの塊となり、前後の見境なく野生のフルパワーで兄に向かっていく。一瞬の快感は、その先にある取り返しのつかない結果など考慮の埒外にする。

 同時に私の妻の顔が思い浮かんだ。私が傷害罪や殺人罪で捕まったら、最も悲しむのは妻だ。私は妻を悲しませたくなかった。彼女を不幸にしたくなかった。彼女の悲しみは私の悲しみであり、彼女の不幸は私の不幸だった。妻への慈愛が玄関への一歩を踏みとどまらせた。

 もしも、私が妻との仲が悪かったり、将来に希望を持てない自堕落な生活を送ったりしていたら、私は一触即発の予感を持ちながら、否むしろ一触即発の予感を持つゆえに、玄関に積極的な一歩を踏み込んでいたかもしれない。

 私は妻を幸せにしようと思って結婚した。少なくとも結婚して良かった、と感じてもらえるような夫になろうと思った。それは、私の両親の結婚生活を反面教師にして思い定めたことだった。両親の結婚は、不幸な人間を増やすためのものにしか思えなかった。そういうものならば、初めから結婚すべきではなかったのだ。小学生の時、家族喧嘩の多さにうんざりして私は聞いた。

「どうしてお母さんはお父さんと結婚したの?」

「しょうがなかったのよ、田舎のことだから」

 と母は答えた。

 また以前、母は定職に就かずフラフラ生活を続ける兄について言った。

「結婚でもしたら落ち着くかしら。何処かに相手がいないかしら」

 私はムキになって反論した。

「万が一、兄が結婚出来たとしても相手の女は絶対不幸になる。そんなのは分かりきっている。女は物じゃないんだ。不幸になる女をわざわざ作ることを、オレは絶対に許さない!」

 

 私は実家から帰ろうと決めて、玄関の敷居から一歩後ずさった。兄は玄関の壁に背中をつけて、左足をサンダルに乗せている。彼は再び「かずしこ!」と怒鳴った。

 兄に背中を見せるのはとても不安だった。私は兄の気配を注意深く見ていた。

 帰ろうとする私に、気分を害した兄が殴ってくる恐怖。もしも殴られたら、抑制の効かない精神状態になった自分が兄に何をしでかすか分からない恐怖。自分が殺人を犯すかもしれない恐怖だ。一触即発の危険を回避して、玄関の敷居を跨がないと決めても、実際に殴られたら自分がどう反応するかは分からない。

 幼い頃に退行した自分がいる。母は「殺してやる」と言って兄に向けていた包丁を下ろしてしまった。いつまで経っても騒がしい兄。幼い私は、奪い取った角材を兄の脳天に振り下ろす。玄関で倒れている兄を見つめて呆然となった今の私。そんな光景を想像し、恐怖で視界がぼんやりした。

 私は妻の悲しみを考えた。自分の幸せを求めて、心の中で強く凶器を握りしめた。兄の角材が届かない距離まで後ずさった時、私はサっと踵を返して走って逃げた。

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