兄の死   16 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   16

 私が通帳を探している最中、市の福祉担当者と保健所の看護師の2人は兄と面談していた。

「病院で診てもらったことはありますか?」

「オレは病院なんて行かねえんだ!」

 病院に行かない生き方を誇るかのように、兄は偉そうに声を張り上げて言った。その反応には若干の意識混濁が感じ取れる。

「病院に行った方がいいですよ」

「オレは死んだ方がいいんだ」

「そんなこと言ったら駄目です。病院に行って診てもらいましょう」

「オレは立てないんだ!」

「それでは救急車を呼びますよ。救急車で○○病院に行きましょう」

 兄は、ひと呼吸を置いて答えた。

「○○病院なんて、ヤブじゃねえか!」

 ヤブでなかったら病院に行くのか? 通帳を探しながら私は思った。病院に行かない主義なら、簡単に「行かない」と言えば良いし、「オレは死んだ方がいい」も余計な言葉だ。

 幼い頃、食べ物の好き嫌いを言った私は、「嫌なら食うな!」と怒鳴った兄から、横っ面を思いっ切りひっぱたかれた。当時された事を、今私は心の中で兄に返していた。

『病院に行きたくなければ行かなくていい。同情を引く言葉は耳障りだ』

 制服の警察官二名は並んで立ち、廊下から部屋の様子を見ていた。彼らは凶暴な人がいる家の家捜し、と民生委員から言われていただろう。ところが、蓋を開けてみると監視対象の人物は若干の意識混濁があり、腹が病的に突き出た立ち上がりそうもないあぐら姿。警察官は緊張感が取れて、面白いものを見るように二人とも口元を緩ませていた。

 兄がいる六畳間の引き出し類を全て開けてみたが、通帳は見つからなかった。

「別の部屋を捜してみます」

 私は周りの人に聞こえるように言い、警察官の前を通って廊下を移動した。他の部屋は生活感に乏しく、ものを仕舞えそうな所を探したが通帳は出てこなかった。私は兄がいる六畳間に戻った。

 母と兄は、一日中この部屋で一緒に過ごしていたようだ。昔からある掘りごたつ式の座卓。兄が座る万年床と座卓を挟んで布団が畳んである。この布団は母が使っていたのだろう。六畳間に薄っすらと漂う排泄物の臭い。真新しいポータブルトイレが部屋に置いてある。

 排泄物の臭いは、母が使っていた布団だけから漂っているのだろうか。六畳間の畳を歩くと靴下がベタつく。靴下が尿で汚れた感じがする。通帳を探すために念のためポータブルトイレの蓋を開けてみると、一度も使用した痕跡がない新品だった。

 母は痴呆症による排泄のトラブルを抱えていたらしい。兄も同じトラブルを持っているのだろうか。

 

 (母は、入院中および退院後に入居したグループホームでの生活の初期に、排泄のトラブルがあった。トイレ以外の所をトイレと思って用を足してしまうのだ。

 ところが、グループホームの生活を続けていると、いつの間にかトイレで用を足すようになり、排泄のトラブルは全く無くなった。そればかりか、痴呆の程度が見違えるほど良くなり顔に笑みが戻った。これは特別な治療を施したからでない。

 人と交わり、身体を動かし、ストレスが少ない生活を送っただけで症状が大いに改善したのだ。母にとって問題の解決方法はポータブルトイレを買うことでなく、健全な社会生活を送ることだった。

 入院した母の身体には青あざが複数あった。兄から暴力を受けていた跡だ。兄は、母の排泄のトラブルや、その他痴呆に基づくトラブルに腹を立てて暴力を振るったのだろうか。そうだとすると、兄は自分の弱さが招いた結果に暴力を振るっていたのだ)

 

totop