僕らはみんな病んでいる   5 宮田のエッセイ館

僕らはみんな病んでいる
僕らはみんな病んでいる   5

 最後列の座席から聞こえるのは三人三様の声。三人のうち少なくとも一人を「ヒステリー女!」と私の感覚は捉えている。

 彼女の性格は、彼女が同居する家族の心に毒針のように刺さり続けているだろう。それを想像すると、彼女の家族がかわいそうに思えて仕方がない。

 三崎行きのバス旅情に浸っていたい思いと裏腹に、ババアの声に触発された私の想像力は、ヒステリーに虐げられている人々に及んでしまう。感興が湧かない車窓の風景は、目の留まるところが無い、移りゆくだけの物になってしまった。

 思い浮かぶのは、悔し涙を流している彼女の子供の姿。彼女の猛り狂う感情に、子供の心は圧殺される。抑圧される子供の感情は、悔し涙に置き換わるのだ。

 仕事を終えて帰宅した夫は、妻の今晩の機嫌を気にかけながら恐る恐る玄関を開ける。玄関の戸に手をかける度に、彼の心がつぶやく。

「結婚は失敗だった」

 妻が角隠(つのかく)しに潜めていたヒステリーの角を、彼は結婚後にようやく発見した。今となっては後の祭りだ。

 そうして私の気持ちは、母のヒステリーが三崎の実家で猛威を振るっていた頃の、暗黒の生活に引き戻されてしまう。

「ああ嫌だ、二度と嫌だ、絶対に嫌だ」

 私は心の中で頭(かぶり)を大きく左右に振って拒絶する。

 独身時代、私は将来結婚するつもりが無かった。両親を見ていると、お互いが不幸になるために結婚したようにしか思えなかった。夫婦二人だけが不幸になるのは構わないが、二人は不幸の輪を広げるかのように子供を作った。まるで不幸の伝道師だった。幼い頃、私は家族喧嘩にうんざりして母に、

「なんでお父さんと結婚したの?」

「なんでオレを産んだの?」

 と聞いたことがある。

 不幸になりそうな選択をなぜするのだろう。私は一人でも生活していけるのに、わざわざ結婚する理由が分からなかった。「君子危うきに近寄らず」つまり「君子結婚に近寄らず」を心に決めて生きてきた。

 ところが私は結婚した。結婚相手は、一緒にいると私の気持ちが落ち着く人だった。ヒステリーを鋭敏に感じ取る私の毒針センサーは、その人に全く反応しなかった。

 結婚から29年経過した今でも、私は幸せな夫婦生活を送っている。これは、あの実家やあの母の元で私の心に育まれた毒針のお陰である。心に突き刺さった毒針はセンサーとなって、ヒステリーや不快物を鋭敏に感じ取り、私は危険を察知して対象物から距離を置く。

 この点において、あの実家での暗黒生活は役に立っている。

 ところで余談だが・・・、と断っても私の文章は余談だらけで、どこが余談でどこが本筋か分かりにくいのだが、こんなことがあった。

 私は仕事を離れた時間に、犬を連れた人と道ですれ違わざる得ない時、犬との距離が近づかないように気をつけている。自然さを装って犬から距離を置いてすれ違う。犬の引き綱が長いと最悪だ。

 こういう私は少しおかしいのだろうかと思って、この話をとある開業獣医師2名にしたところ、2人とも迷いなく、

「私も宮田先生と同じです」

 と即答した。答えの理由は3人とも同じで、犬が原因となった出来事に巻き込まれる可能性を避けるためだ。相手がどのような人格の飼い主か分からないし、どのような性格の犬かも分からない。

 犬に咬まれる可能性、犬の引き綱にこちらの足が絡む可能性、近寄った犬の唾液がズボンに付いてしまう可能性。これらの可能性が現実になっただけでも不愉快なのに、人格不明の飼い主とのやり取りが生じる。このやり取りを想像しただけで、うんざりしてしまう。関わり合いたくないのだ。

 現実になる可能性が低くても、確実な予防策を講じてしまう。予防策が多少大げさになるのは、小動物臨床の仕事で心に育まれた毒針センサーのせいだろう。

  盲導犬などの補助犬を連れた人がいたら、もちろん私は厚意で道を譲る。

 一方で私は、通行人がお犬様に道を譲るのが当然、とばかりに犬を連れ歩く飼い主(健常者)に嫌悪感を催すので、街中でそういう飼い主を見かけるとどうしても大きく避けてしまう。

 しかし別の意味において、このお犬様は飼い主にとって補助犬なのだろうか、と私は思うことがある。

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