兄の死    7 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死    7

 担当医師と三回目の面談をした。一回目の面談で、入院した母が暴力的な虐待を受けていた可能性を告げられた。二回目は、頭部のCT画像を見ながらアルツハイマー型認知症との診断を告げられた。そして三回目の今回は、退院の準備をするようにと告げられた。

 以前の母に無かった痴呆的な言動や足元がおぼつかない状態を見ていると、まだ入院が続くだろうと単純に思っていたのだが、医学的にみれば入院している必要が無いらしい。

 一回目の面談時、母が実家に戻ったら兄から再び虐待を受けるので、私は母のためにアパートの一室を借りようかと考えていた。しかし、その考えは漠然としたものだった。

 母は認知症のために身の回りことが出来ないので、アパートに一人住まいをさせるわけにいかない。私と妻は家を出て日中一緒に働いている。また我々夫婦の住まいは妻の実家で、つまり妻の家族が生活している。退院と聞いて、私はどうして良いか分からず途方に暮れた。

 入院している病院に相談室があった。退院後についてそこで相談してみるようにと医師からアドバイスがあった。人当たりの良いベテランの看護師が相談担当者として就いてくれた。この相談担当者との面談で『介護老人保健施設(老健)』『特別養護老人ホーム(特養)』『グループホーム』などの単語と私は初めて接した。正確に言えば、今まで素通りしていたこれらの単語と真剣に向き合ったのであった。最初の内、老健と特養の区別がなかなか付かずに困った。

 ところで、我々夫婦がどうして妻の実家に住まわせてもらっていたかと言うと、第一に節約のためである。動物病院の開業準備に入った頃、出費を抑えるために妻の両親と同居を始めた。二人が住むためにアパートを借りたら、一ヶ月あたり家賃数万円の出費が増えてしまう。動物病院を開業するためにかかった費用は、開業後に月々返済しなければならない。開業一年目は赤字で、手持ちの運営資金が減ってヒヤヒヤした。二年目はプラマイ0だった。同居は経済的に助かった。

 同居をした二番目の理由は、私の実家対策のためである。私の実家では、家族喧嘩があった時、母は異常な興奮状態のまま親戚や知人に電話をかけて助けを求めた。

「○○さん! ちょっと来て!」

 ヒステリックにこれだけを言って電話を切った。また、喧嘩での自分の正当性を電話で一方的にがなりたてることがあった。受話器を握って母が興奮している時、喧嘩相手の父が電話線を引きちぎった。

 家族喧嘩の勃発時間はほとんどが夜だった。夕食時に晩酌をして酒の勢いで喧嘩が始まることが多かったからだ。夜、仕事が終った我ら夫婦は家に帰る。帰宅場所が二人だけの住まいとしたら、そこは母の発狂電話の餌食になるのは間違いなかった。二人の帰宅場所が妻の実家ならば、妻の両親が介在するので母の発狂電話を防げると思ったのだ。

 以前、妻の母が帰宅直後の私に言った。

「ご実家のお母さんから電話があって、とても慌てていらして何か大変なことになっているみたいですよ」

 普段の義母はとても穏やかな人だが、この時は私を見てソワソワしていた。

「ああ、大丈夫です。放っておけばいいです」

 私は答えた。義母は、

「連絡しなくていいんですか、なんだかご実家で大変なことが・・・」

 と言い、妻が、

「お母さん、大丈夫だから」

 と彼女にとっての実母を制した。妻は私から私の実家についてレクチャーを受けていたので、冷静な判断ができたのだ。家にかかってきた母の発狂電話は、後にも先にもこの一回だけだった。もしも我ら夫婦が二人だけで住んでいたとしたら、発狂電話は百回くらいかかってきたであろう。

 さて、退院後の母の行き先をグループホームに決めた。ほとんど待たずに入居できる施設が近くにあった。月々の入居金額等は十数万円。母に支払われている遺族年金を当てる必要があった。母の入院を知らせてくれた民生委員に、私は母の退院やグループホームの入居などについて電話で知らせた。

「そういうわけで、近いうちに母の年金が振り込まれている預金通帳を実家に探しに行きます」

 私が言うと、民生委員は、

「お兄さんが居る実家に一人で行くのは危険です。私も行きますよ。警察官も一緒に行ってもらいましょう」

 と言った。

totop