兄の死    8 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死    8

 私の母が救急車で運ばれてから、民生委員は私の実家を訪ねて兄と接触した。そこで彼女が見たものは、まともにコミニュケーションがとれない凶暴そうな男だった。隣近所に聞いてみても兄の評判は芳しくない。

 私が一人で実家に入る危険性について、彼女は電話で続けて言った。

「兄弟だから尚更(なおさら)危ないんです。関係が濃い分だけ憎しみの感情が大きく振れる事があって、突発的に何が起こるか分かりません。兄弟間の傷害事件や殺人事件はこれなんです」

 言われてみれば彼女が言う通りだった。私は心のなかで、彼女と世のすべての民生委員に深く頭を下げた。彼女の指摘は、神様が放った矢のようにある出来事の正鵠を射抜いていた。

 

 それは、ある年の大晦日、私が最後に実家を訪れた時のことである。実家までは私の職場から車で40分あれば行けた。私の住まいからでも車で50分あれば行けた。行こうと思えばいつでも行けた。この当時から実家は行きたくない場所になっていた。出来れば行きたくなかったが、実家に寄ってみたい事情が生じた。私の職場に兄から嫌な電話が続いたのだ。

 最初の嫌な電話は、

「お袋が白内障の手術をするので××病院に入院した」

 であった。××病院に足を運んで確認したがその事実はなかった。××病院は、祖母が三十年以上前に白内障の手術をした病院である。今、白内障の手術は町のクリニックでも日帰りで出来るようになった。実家では白内障の手術と言うと、未だに××病院に入院と思っているようだ。(母の白内障の手術は、兄の死後、私が町のクリニックに母を連れて行って受けさせた)

 この二~三ヶ月後に次の嫌な電話があり、私の妻が受話器を取った。相手は名乗らずに「○○さんか」と妻の名前を確認し、続いて、

「お袋を殺したのは俺だから」

 と怒ったように言い捨てて相手は電話を切った。私の兄の声だった。妻は青い顔で電話の内容を私に告げて床にへたり込んだ。私は今度も兄が嘘を言っていると思った。兄弟ゆえに、相手の言動パターンに察しがつきやすい。しかし、内容が内容だけに私は不安になった。

 翌日、私は実家に電話をした。「もしもし」と電話に出たのが母だったのでホッとした。

「お母さん、元気なの?」

「元気よ。どうしたの」

「昨日、兄から電話があって、お母さんを殺したって言ってたよ。お母さんは元気なんだね」

「何を変なこと言ってるの、私を殺したって? まー馬鹿な、そんなことあるわけ無いじゃない。私は元気よ」

 それから一ヶ月ほど経って、兄から職場に三回目の嫌な電話があった。今度は私が受話器を取った。

「俺はお袋を殺した。お袋を殺したのは俺だ」

 と兄は偉そうに言って電話を切った。私はうんざりし、腹が立ち、不安になり、ため息をついて立ちすくんだ。実家近くで中学校時代の同級生と大晦日に会う約束があった。あと何日かだった。丁度いいので、ついでに実家へ立ち寄ることにした。

 大晦日、私は実家の前に立った。南向きに建つ家屋。玄関の戸は大きなガラスをはめ込んだ一対の引き戸。引き戸のガラスから入った陽が玄関に満ちている。ここに住んでいた子供の頃は、よその家の玄関がとても暗く感じたものだ。私は引き戸を開いて家の奥に声をかけた。昔同様、引き戸に鍵はかかっていなかった。

「こんにちは」

 以前実家に来た時期がはっきり思い出せない。二年前か三年前か、もっと前だったろうか。「こんにちは」が、自分でも分かる程よそよそしい感じがした。そして以前ならば、そのまま家に上がっていたのだが、私は引き戸を境界線にして玄関の外に立っていた。兄の返事がした。

「おーい」

 はーい、と言っているらしい大きい声だった。

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