兄の死    6 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死    6

 母は腹帯で身体を車椅子に固定している。そうしなければ、勝手に車椅子から立ち上がり歩き出してしまう。一人で歩いたらどこに行くかわからないし転倒の恐れもある。アルツハイマー型認知症と母は診断された。腹帯の意味について何度説明しても、彼女はしばしば発作的に腹帯を取ろうとした。

「何よこれ、まー嫌だこと」

と憎々しげに言い、腹帯に手をかけて執拗に引っ張った。

 私は病室の窓際に車椅子をつけた。数日前、ここで最初に母の車椅子を押した時に比べて、私は車椅子の扱いに慣れていた。窓に真夏の陽が張り付いていた。腹帯を取ってやると、母は車椅子から立ち上がりベッドに横たわった。毎日少しずつ下半身に入る力が強くなった。最初の頃は、よじ登るようにしてベッドの上にたどり着いていた。

 母はベッドに横たえた身体を急にうつ伏せに変えて、枕元にあるベッドフレームの一箇所を凝視した。真っすぐ伸びるフレームの途中に出ベソのような凸部がある。

「これが変なのよ」

 と、母は右手を前に伸ばした。左肘は窮屈そうに折りたたんで胸につけている。右手の人差し指がフレームの凸部に触れた。使用目的があってフレームメーカーが意図的につけた物であろう。一般の人ならばそう判断して、たいして気にも留めない代物である。

「前から変だったのよ」

 指先で凸部を探るように触っていた。すべての意識が一箇所に集中し、うつ伏せの身体が固まっていた。射(い)すくめる目つき、懐疑的な低い声。私にとって親しんだ目つき、親しんだ低い声だった。私は母の気持ちに同調して言った。

「これ、変だよね」

 

 ベッドフレームの凸部を「これが変なのよ」と執拗に触る母の行為は、普通の人には分からないだろう。私は母の気持ちがよく分かる。やはり親子だと思った。

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