僕らはみんな病んでいる   1 宮田のエッセイ館

僕らはみんな病んでいる
僕らはみんな病んでいる   1

 三崎の街を散歩していたら、通り過ぎたばかりの道路が「パチン!」と弾けるような音を立てた。振り返って見るとイワシが一つ落ちていた。下町の、両脇に家が迫った幅の狭い道路だった。私は上を見た。イワシを上から落とした犯人らしき者が飛んでいた。弧を描いて舞う数羽のトンビだった。

 100メートルほど手前の路上にも一匹のイワシが落ちていた。ある家の玄関先だった。その時は路上のイワシが不可解であったが、やはりトンビが上空でくわえ損なったものだったのだろうか。

 この辺にお店があった、と私は歩きながら思い出していた。

 子供の頃、海で泳ぎ終わって家に帰る途中、よく買い食いをしたお店だった。駄菓子屋だったか、おでん屋だったのか今となっては思い出せない。はっきり覚えているのは、その店が、熱々のジャガイモを提供していたことだ。お店の人は、半透明のビニール袋にジャガイモと汁を入れてくれた。客の子供はビニール袋を持ち、串でジャガイモを刺して歩きながら食べた。

 海水の塩辛さが残る口はジャガイモを余計に甘く感じ、海で冷えた身体は温まった。家並みに、買い食いをしたそのお店を探していたら、背後でパチン!とイワシが音を立てたのだ。

 私は下町の家並みを過ぎて海に出た。子供の頃にジャガイモを買い食いしていたお店は無くなっていた。

 翌日、私は三崎に住み続ける友人に少々興奮気味に電話をした。

「昨日、久しぶりに三崎の街を歩いてたらよー、空からイワシが落ちてきて、驚いてまったよー」

「そうだよ、三崎じゃあ普通だよ。よく魚が降ってくんだ。こねーだなんかオレの目の前にアイナメが落ちてきたよ」

 である。私は聞いた。

「だけど、オレなんかが子供の頃よお、三崎で魚なんて降ってこなかったよな」

「おー無かった。釣り人や漁師がその辺にかっぽった(捨てた)魚を鳥が取んだんべ。最近カラスが増えて、たぶんトンビも増えただよ」

 私は三崎で生まれ育ち、人生の後半は横須賀に生活の拠点を移した。普段は標準語を話していても、三崎の人間と話すと三崎弁になる。三崎弁で喋っていると、子供の頃の無邪気さが蘇ってくるのが分かる。大した用事が無くても私が三崎の人間に連絡をするのは、無邪気になりたいからだろう。

 三崎弁で困るのは、三崎弁での会話をワードソフトで書いた場合、こちらの意に反して活字が赤色や青色の波線に彩られてしまうことだ。赤色や青色の波線が文字の下に現れて『この箇所は書き間違いでは?』と注意を促してくるのだ。

 いくら正しい三崎弁を書いても『間違いでは?』という感じで再三に渡って注意を促されるのだが、これは私に限らず他の方言表現者も悩まされる現象に違いない。そう想って諦めた。

 

 三崎の街を散歩したのは、三崎にある実家を他人に譲渡してから半年ほど経ってからである。父、兄、母の順番で亡くなり、住む者がいなくなった実家は空き家になっていた。自分にとって忌まわしい記憶が詰まったあの家を、どうこう活用するつもりなど全く無かった。持っていても、今後の人生に余計な荷物になるだけだったので売却した。

 正式に売買契約書を交わし、実家は他人の所有物になった。法律的に他人の家になっても、自分の家という感覚が私から離れていかなかった。生まれ育った思い出が家の隅々まで根を張っていた。

 時の経過とともに気持ちは家からゆっくり離れていった。ある時、京浜急行の『三崎口』行き電車が南に向かって走っている姿を見て、

「そうだ三崎行こう」

 と思わず口に出して言った。気がつくと私の気持ちは実家から十分に離れていた。あの家は気持ちの上でも自分の物で無くなっていたのだ。引き換えに、それまで自分の欲求としてほとんど感じたことが無かった『三崎の散歩』が、無性にしたくなったのだ。

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