兄の死   23 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   23

 同じ幼稚園に通った幼馴染がいる。彼は私の家によく遊びに来た。実家に残る古いアルバムを開くと、幼稚園児の彼と私の家族が一緒に収まっている写真が数枚ある。東京に住む私の親戚が実家に来た時、遊びに行った城ヶ島で撮った写真に、親戚と一緒に幼稚園児の彼がちゃっかり写っている。

 そんな彼と何十年かぶりに会って話す機会があった。彼は私の実家の構造をよく覚えていた。「広い玄関を入ると左に六畳間があって、廊下がこんなふうに伸びていて・・・玄関の地面に黒い石が敷いてあって・・・」

 彼は、この連載『兄の死』を読んでいた。

「宮田のお母さんに突然怒鳴られた記憶があってさ。どうして怒鳴られたのか当時は分からなくて、幼心に理不尽さを感じていたんだけど・・・やっぱり理不尽だったのかな」

 私は幼馴染の彼に答えた。

「オレと一緒にいた時に、オレが突然理不尽に怒鳴られたから、そういう記憶があるのかもよ」

 母は発作的に機嫌が悪くなり、突然怒鳴ったり説教を始めたりする。認知症になっても、彼女はこの気質が変わらなかった。しかし、グループホームのスタッフや居住者に対しては、よそ行きの態度を維持しているようだった。

 グループホームから定期的に送られてくる連絡帳に『たまに眉間に皺を寄せて、目を閉じてジッとしていることがあります』とあった。これは、母が不機嫌の発作に見舞われた時の態度だった。彼女の頭の中だけで、怒鳴ったり説教をしたりしている状態である。他人の前ではこの程度の態度に留まっていた。

 不機嫌の発作に見舞われた彼女は、感情をぶつける相手を求めていた。その相手になるのは、ほとんどが家族だった。

 ある日、グループホームの個室で母は眉根を寄せて、突然私に説教を始めた。

「なんで、和彦はタカシに優しい言葉をかけてやらないんだ。タカシは、かわいそうなんだぞ」

 声が怒りに満ちていた。昔から何度も聞かされたセリフだった。彼女の説教は、いつも自分勝手な怒りに満ちていた。私が兄に優しい言葉をかけていれば、兄はもっとなんとかなった、と彼女は思っている。

 私は母の理不尽な説教にいつも腹を立てていた。昔はムキになって言い返すことが多かった。この日は、

「オレ、帰るから」

 とだけ返答してグループホームを後にした。動物病院で普段から、飼い主の一方的な感情をぶちまけられることがある。うんざりだった。母は私が帰る理由が分からないように、帰る私の後を追った。

 それから数年後、母は脳梗塞で倒れ、たて続けに襲われた骨髄低形成症候群によって亡くなった。

 母の遺体を葬儀屋に取りに来てもらい、一般的な通夜や葬儀をせずに火葬場へ運んでもらった。火葬に立ち会ったのは、私と私の妻の二人だけだった。焼かれる前の棺に二人で手を合わせた。手を合わせたこの儀式が母の葬式だった。兄と全く同じ葬式だった。

 母の遺体を焼く間、我々は火葬場の控え室にいた。控え室で私は、妻が以前言った言葉を思い出していた。「お兄さんは、お母さんによく似てる」

 母は農業を営む家に生まれた。母方の祖母は、若い頃の母について、

「農作業を手伝ってもらおうとすると、あの子は押し入れの中に入って、嫌だっ!て絶対に手伝わない子だった」

 と嘆いていた。私が子供の頃、母は実家近くの水産加工場にパート従業員として出向いたが、たった一日勤めただけで辞めた。

 母は「起きろ」と怒鳴って、兄の掛布団を力ずくで引き剥がそうとしていた。朝、高校へ行きたくない兄が「嫌だよー」と布団にくるまって抵抗していた。私の記憶に最初に現れる兄だった。

 母と兄は二人共発作的に怒鳴った。二人はよく似ているのだ。

 私は火葬場から、まだ暖かい母の遺骨を自分の部屋に運んだ。私の部屋に数年前から兄の遺骨を置いてある。兄の遺骨の横に母の遺骨を置いた。二人の遺骨が並んだ。

「お兄ちゃん、お母さんが来たよ。お兄ちゃんはお母さんが大好きだったでしょ」

 私は、二人一緒にいずれ海で散骨しようと思った。(了)

 

あとがき

 

 お気づきの方もいるだろうが、この連載の題名は『失敗』である。『兄の死』は、その一部の章を成すものと私は考えて書き始めた。父と母の結婚が大いなる失敗だったと私は考え、失敗の原因を求めて、二人の出身地である岩手県の生活模様まで遡るつもりでいたが、『兄の死』で予想以上に手こずってしまった。長くなるので一旦ここで終了とする。全く、兄は死んでも弟を手こずらせる人だった。

 その後、母と兄の遺骨は海に散骨した。散骨した時の様子は、当サイトの『賀詞交換会』に記した。

 私は『兄の死』を書き終わるにあたり、気がついたことがあった。それは、私が兄を好きだということだ。

 私は海辺のウォーキングを日課としている。ウォーキングの途中で時々、海に向かって、

「来たよ」

 と声をかけている。海は母と兄の墓なのだ。

 『兄の死』を書き終わる頃、私は海を見ながら兄を思い出し、悲しくなって目を赤くしていた。いつも夜のウォーキングなので、通り過ぎる人に私の赤い目を悟られることはない。それをいいことに、私は時に涙を流しながら歩いていた。そうして私は、兄を好いている自分が分かった。

 私は生まれ変わるなら、もう一度あの兄と兄弟になりたいと思った。ただし、もう少し真面目になった兄という条件付きだが。

 私はこれを書いて良かったと思っている。どうやら兄の供養になったようだ。書かなければ今の心境に達しなかっただろう。

 読者のみなさん、私の兄の供養に付き合ってくれてありがとう。

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