母が入居したグループホームは日当たりが良かった。食堂にも個室にも十二分に陽が入った。私が面会に行くと、母は食堂にいることが多かった。食堂には他の入居者やスタッフがいる。私の顔を見た母は、すぐに私を連れて彼女の個室に移りたがった。他人に聞かれたくない話があるのだ。
個室に入った母はベッドに座り、兄のことを心配そうに聞いた。私は椅子に座って母に向かい合った。
「タカシはどうしてる?」
「お兄ちゃんは家にいるよ」
母は考え込むように顔をしかめた。
「あそこで、タカシはどうやって食べてんだ?」
「市の福祉の人が時々行って、様子を見てるから大丈夫だよ」
兄がどのように食事をしているのか、私は知らなかった。市の福祉担当者が呼ぶ救急車への乗車を、兄が拒否し続けていることは内緒にした。
「どうしてタカシは、あんなふうなんだ」
あんなふう、とは兄の性格や今までの生き方だ。いつまで経っても変わらない、どうしょうもない、と母は深く嘆くのだ。これに対して私はいつも答えない。仮に答えがあったとしても、58歳の兄が今さら変わりようが無いからだ。一度『あんたの息子だから』という答えを思いつき、言ってやろうかと思ったが止めた。
母は兄の状態を、いつも初めて尋ねるような口ぶりで聞いた。私は用意してある答えを、面会の度にオウムのように繰り返した。
時々、発作的に
「いまからタカシに会いに行く」
と母は言った。会ったところで何も変わらない。むしろ、会えばかえって状況が悪化するだろう。母が兄に声を上げ、兄が母に声を上げる。そして「和彦もなんとかしなさい」と、その声の輪の中に私が巻き込まれる。みんなが不幸になる輪の中に。
興奮して声を上げ合い家族喧嘩になった。家族喧嘩の繰り返しが、馬鹿騒ぎの繰り返しに過ぎなかった家の歴史。それでも彼らは興奮して大声を上げ合う。
兄が定職につけば家族喧嘩は無くなるだろうか、と幼い頃の私は希望をもった。しかし、成長するにつれて『この家から喧嘩は無くならない』と悟るようになった。なぜなら、私は喧嘩をしたがっている彼らに気づいたからだ。
父が死んだ時、私が思ったのは『一人減った。あと二人』だった。心に平和が訪れるまで、幼い頃から憧れていた生活が訪れるまで『あと二人』だったのである。
「いまからタカシに会いに行く」
と言う母に、初めのうちは、
「会いに行っても、どうしょうもないよ」
と言っていた。しかし、日を追うごとに母が治まらなくなってきた。心配が募るのだろう。そこで私は嘘をつき始めた。
「お兄ちゃんは精神病院に入院している。遠い所にある病院だから、お母さんは会いに行けないよ」
母は精神病院が何か分からないように顔をしかめた。私は自分の頭を指差して言った。
「ここが悪くなった人の病院だよ」
そういう所への兄の入院に、彼女は納得するように頷いた。
ある時、私は母に聞いた。
「お兄ちゃんは歩けないんだって?」
母は不思議そうに私を凝視した。
「タカシが歩けないって?」
「うん。オレは歩けないんだって言って、誰が家に行っても、お兄ちゃんはあぐらをかいたまま立たないんだ」
母は可笑しそうに鼻で笑った。