兄の死   20 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   20

 母の退院する日が決まった。

 実家の台所で倒れているところを通行人に発見されて、母は救急車で病院に運ばれそのまま入院していた。倒れていた原因として、兄の身体的虐待が疑われた。身体中に青アザがあったのだ。

 母は入院中に異常な言動が見られたため画像検査等がなされて、アルツハイマー型認知症と診断された。

 身体の傷が癒えつつあり「これ以上入院の必要はない」と担当医に言われたのだが、母を兄が住む実家に戻すわけにいかず、そうかと言って、私も認知症の母と同居することは難しく、母の退院に対して直ぐに対応が出来かねた。

 有り難いことに、こちらの事情を分かった病院側は、母の退院を彼女が入居する施設が見つかるまで待ってくれた。幸い入居出来るグループホームが早期に見つかった。グループホームでの生活費を今後支払っていくために、遺族年金が振り込まれる母の預金通帳を実家で探し出した。

 これで母の退院準備が整った。

 私は、母が入院中にとても不安なことがあった。それは、母の入院先を突き止めた兄が、母を連れ戻そうとして病院に怒鳴り込んで来るのではないか、という不安だった。

 母を実家から病院に搬送した救急隊員によれば、実家の六畳間にいた兄は、

「オレは歩けない」

 と言い、床に終始座り続けていたという。私はそれ聞いて、兄が嘘をついていると思った。足が悪い兄など聞いたことが無かった。実家から母の病院までタクシーで三十分あれば着く。「歩けるようになった」とうそぶき、タクシーで病院に乗り付ける兄の姿が容易に想像できた。

 私は十歳の時に、神奈川県の実家を離れて仙台市に母と二人で住んだ。家族喧嘩の絶えない実家から、母が私を連れて避難したのだ。家族喧嘩の主な原因の一つは、ニートの合間に様々な職業を転々とする兄の存在であった。

 そんな兄が、私と母が住む仙台市のアパートに何の前触れもなくやって来た。私がドアを開けると、二十二歳の兄が照れくさそうに立っていた。まさかここまでやって来るとは思わなかった。母は兄を見るなり、

「何しに来た! 帰れ」

 と、感情を圧し殺した声で静かに怒鳴り、一方的にドアを閉めた。門前払いだった。まだ東北新幹線が無い時代だった。兄は時間をかけて来た道を戻ったのだろう。

 その後の人生でも、兄は家を離れられなかった。家というよりも、母から離れられなかった。父が死に、兄と母が二人で暮らすようになってから、兄の母への執着がさらに強くなった。

 二人暮らしを心配して実家を訪れた親戚は、兄に怒鳴られ取り付く島なく退散した。私は一度実家を訪問した時、角材を持った兄に「かずしこ!」と玄関で何度も怒鳴られた。私以外の訪問者も、角材を持った兄に怒鳴られて門前払いの扱いをされた。

 これらは、母を施設などに入れられたくない、母と離れたくない、と思う兄の態度だった。兄の母への執着心の強さを、私は嫌というほど知っている。

 だから、兄が母を連れ戻すために病院に怒鳴り込む不安を、私は持った。

 不安が現実になることなく、実家で預金通帳を探す日になった。久し振りに見た兄は、意識の混濁傾向があり腹が異様に突き出していた。この姿を見て、死に向かう兄の意思を感じた。死ぬつもりゆえ母を連れ戻しに行かないのだろうか、と思い、私は兄の死を待った。

 退院後の母が入居するグループホームは実家からタクシーで十分の所にあった。兄が母を連れ戻しにやって来る不安が払拭できなかったので、グループホームの場所は出来る限り秘密にした。

 実家で通帳を探した日から約二ヶ月後に兄は死んだ。

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