兄の死   19 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   19

 鬼のような三白眼になった父から、私は、

「かずしこ!」

 と怒鳴られてきた。私の名前は和彦(かずひこ)である。興奮状態の父が怒鳴ると、いつも「ひ」が「し」になった。発声時に唾の飛沫音が聞こえるような、だらしない「し」であった。

 鬼のような三白眼で横になっている父から、今にも「かずしこ!」と怒鳴られそうで怖かった。私は父の視野から離れた別の部屋で昼食の弁当を食べ始めた。

「オレの人生もいよいよ終わりだな」

 母が父の言葉として言っていた。言う母は淡々としていた。聞く私も悲しみを感じず、弁当の天丼がすんなり喉を通った。

 普通に聞けば、死期が迫りつつあることを自覚している父の言葉である。しかし、単に肉体的な衰えを死に結びつけた言葉であると思えなかった。わざわざ「人生が終わる」と言ったのだ。食べている弁当と違って、すんなり腹に落ちない言葉だった。

 この家で生活した者しか感じられない陰性の雰囲気が漂っている。弱くなった父、身体の自由が効かなくなった父が、この家の不幸を一身に集めているように見える。

 姿を現した兄が、弁当を食べている私に言った。

「親父は先が長くないから、ちゃんと会っていけよ!」
 聞く者を威圧する兄の大きな声。父を見下ろし、父を支配し、父の生死を司(つかさど)る声だった。この家に漂う陰性の雰囲気の正体だった。

 家族を怒鳴り、罵り、家族に暴力を振るってきた父。その父が、家族から怒鳴られ、罵られ、暴力を振るわれる立場になったのだ。私は兄の声を聞いて確信した。

 力や立場の強い者が、力や立場の弱い者に対して怒鳴り、暴力を振るう。父は、彼の父から、そのように育てられた。三陸沿岸の漁師の家に生まれた父は、小さい頃から家の仕事を手伝わされた。9人兄弟の下から2番めだった。漁師の子供に対する教育は、尋常小学校でなされるものよりも、家長や長兄の怒声と暴力の方が手っ取り早かった。

 そして今、父は自分一人で生きていけない子供に戻ったのだ。家族から暴力を振るわれる子供に。人生が一巡したのだ。父は今、憎しみの仕返しを受けている。私は父の言う「人生」に、因果応報を噛みしめる父を感じた。

 父は遠洋のマグロ漁師として働き、人一倍稼いだ。マグロ漁の基地は三浦市の三崎。私と同じ三崎の中学校に通う同級生のうち、二人は、マグロ船から海への転落事故でお父さんを亡くしている。また、私の同級生は中学校を卒業してすぐにマグロ船に乗り、二航海目で海に落ちて亡くなった。享年17歳だった。

 危険と隣り合わせで父は稼いだ。富士山が見える所に家を建てた。父以外の家族は危険から免れて生活した。

「オレがおまえらを食わせてやってんだ」

 と父は執拗に言っていた。家族は父のこの言葉が嫌いだった。私も嫌いだった。そこまで言うならオレを生まなければよかったのに、と私は反発していた。

 しかし、私は私立の獣医科大学に入学し卒業した。父が死と隣り合わせで稼いだお金で大学に行かせてもらった。一般の学科よりもお金がかかる獣医学科に6年間も通ったのだ。

 私は昼食の弁当を食べ終わった。父は相変わらず「かずしこ!」と怒鳴りそうな怖い目をして横たわっていた。父の怖い目が私の気持ち見透かしているようだったので、私は父に向かって最後まで何も言えなかった。

 私は実家の玄関に立って言った。

「オレ、帰るよ」

「もっと家でゆっくりしてったら」

 と母は引き止めた。仕事があるから帰る、と私は嘘をついた。父の受けている扱いに想像がつきながら、私は何をすることもなく実家を後にした。罪悪感が背後から襲ってきた。父の運命を実家に委ねる罪悪感、大学に通わせてもらったお金を父の財布から掠め取って逃げるような罪悪感であった。

 この一ヶ月後に父は死んだ。

 

 誰も知らないのを良いことに、私は、兄が父を地獄に引きずり込んだ、と市の福祉担当者や民生委員に言った。最後に実家で父を見た時の罪悪感がありながら、私はすべてを兄の責任にした。すべてを兄の責任にした方が、兄からの電話を着信拒否する理由に納得が得られやすい、と咄嗟に思ったからだ。

 実家で探し当てた預金通帳を、私は手の中でもう一度確認した。(次回に続く)

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