兄の死   10 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死   10

 兄は偏差値の低い私立高校を卒業する間際、

「オレは将来医者になる。医学部に入るために三年間の浪人をする」

 と本気で宣言した。兄は予備校に入学の申し込みをして、親は入学金と授業料を納付した。そこは医学部専門の予備校で、納めた金額は高額だった。しかし、兄は予備校へ一日行っただけだった。その後、兄は家でブラブラした。

 父はマグロ船の船員だった。生活サイクルは、数ヶ月間沖で漁をして陸(おか)に上がって一ヶ月間休息する。父は陸に上がった時、家で無為徒食の長男を見て激怒した。子供の頃から、沿岸漁業を営む家の仕事を手伝わされていた父にとって、自分の息子、しかも長男がブラブラしている姿は見るに耐えなかった。

 兄は仕方なしに大手のパン工場で働き始めた。実家の近所までパン工場の送迎バスが来ていたので、それに乗って通った。パンの生産ラインで単調な作業をしながら、彼は工場内で電気工事を専門にする人を見た。生産ラインの外で、自分たちと違う色の作業着で仕事をする姿に憧れた。世の中を生きるには資格を持った方が有利と分かった。

 兄はパン工場を辞めて、電気工事の資格を取るため専門学校に入学願書を出した。親は入学金と授業料を納付した。しかし、兄は専門学校に一週間通っただけで行かなくなった。再び家でブラブラした。兄は早稲田大学に入ると言い、受験勉強する代わりに早稲田大学の校歌を練習する日が続いた。寝っ転がって熱心に何日か歌っていた。この時、兄は19歳で私は7歳だった。

 元々、父と母の間に喧嘩の火種は絶えずあった。この時期から、兄が喧嘩の火種として加わり家庭内の喧嘩が格段に多くなった。母のヒステリックな言葉が火種に注がれる油だった。燃え上がり始めた火に、母のヒステリックな言葉が勢い良く注がれた。

 この頃、家族喧嘩で玄関の引き戸のガラスが数回割れた。茶椀もたくさん割れた。だから食卓に上る茶椀は、比較的新しいものが多かった。

 父の手で家の仏壇が2回放り出された。最初は玄関の中に、別の日は玄関の外に放り出された。父は養子として宮田家に入り、家の仏壇は宮田家先祖代々を祀っていた。

 母が台所に駆け込み包丁を手に取り、「殺してしてやる」と絶叫して包丁を兄に向けた。刺してくれ、と私は願った。以前にも母が絶叫して、父か兄かのどちらかに包丁を構えたことがある。その時、母は相手を刺さなかった。今度こそ刺してくれ、と願った。刺して血が出て、救急車や警察官が来て大騒ぎになれば、みんなが反省して家族喧嘩が起きにくくなるだろうと思った。兄が死んだら悲しいけれど、死んでもいいと私は思った。確実に喧嘩の原因が一つ減るからだ。しかし、この時も母は相手を刺さなかった。『また刺す格好だけか、喧嘩は繰り返されるじゃないか』と私は悔しく思った。

 電話線は十回くらい引きちぎられた。母の発狂電話で呼ばれた警察官が何度か家にやって来て、パトカーの赤色灯が家の外でくるくる回っていた。

 連日喧嘩が続いた日、父の暴力から逃れるために、母と祖母(母の実母)は私を連れて避難した。家からバスで一時間のところにある安旅館だった。父に殴られて、祖母は額にこぶを作っていた。旅館の部屋で母は「こんな思いをさせてごめんね」と私に言った。私は避難ができて嬉しかった。少なくとも今晩は悲しくて辛い思いをしなくて済むのだ。怒声、絶叫、罵り、つかみ合い、取っ組み合い、物が飛び、父に髪の毛を引っ張られた母が廊下の床を滑って行く。喧嘩を止めるための、祖母が上げる無力な声。それらが起こりそうな気配にビクビクしなくて済むのだ。旅館はオアシスだった。しかし2日後、家に戻った。

 私が10歳の時、母は私だけを連れて、避難のために神奈川県の家から東北地方の町に移り住んだ。父が漁で沖に出ている最中に家を出た。漁から戻った父は、神奈川県から電車に乗って妻子に会いにやって来た。当時、東北新幹線は開通していなかった。夕食時、酒を飲んだ夫婦に喧嘩が勃発し、思いっきり張り上げる二人の怒声が響いた。翌朝、私は隣家の小学生の兄弟二人と会った。いつもの通り一緒に小学校へ登校するためだ。兄弟二人は昨晩の怒声を聞いていた。二人が私を見る目にそれがはっきり現れていた。『うちは、いつもこうなんだ』と、私は恥ずかしさ、悲しみ、悔しさをこらえて小学校へ歩いた。

 私が母と二人で暮らす部屋に突然兄が訪ねて来た。母は兄を部屋に一歩も入れず玄関先で追っ払った。

 この地での生活は一年で終わり、私と母は神奈川県の家に戻った。二度と喧嘩をしないという家族の約束があって戻ったが、約束は何ヶ月と持たなかった。再びいつも通りの家になった。

 

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