兄の死    9 宮田のエッセイ館

失敗
兄の死    9

 兄の返事を聞いて私は玄関に上半身を入れかけた。家の静かな雰囲気から、兄が母を殺したような異常事態は感じられなかった。腹から真っ直ぐ吹き上がった兄の声が、より一層そう感じさせた。

 安心した直後、私は警戒感を覚えた。私は前方に傾いた身体を元に戻して、玄関の敷居の外から動かなかった。兄の返事には外来者を敵視する気持ちがこもっていた。弟の私が訪ねて来たことに、気づいているか否かの判別ができなかった。

 襖(ふすま)が開く音がした。玄関のたたきは左右に延びて廊下を兼ねている。向かって左手の六畳間から兄が出てきた。

 姿を現した彼は右手に角材を握りしめていた。角材は一メートルほどの長さがあり、硬そうに見えた。打ち方によっては人間に相当なダメージを負わせる質感だった。そのような角材が何処にあったのだろう。その姿に私は目が釘付けになった。今まで見たことがない出(い)で立ちの兄だった。

 兄は私を認めて、お前か、という顔に変わって立ち止まった。突然、兄は私の名前を叫んだ。

「かずしこ!」

 叫んだせいか「かずひこ」の「ひ」が「し」になっていた。「し」の時、口からつばが飛んでいるように聞こえる。彼は廊下を右方向に歩き始めた。歩きながら、

「かずしこ!・・・かずしこ!・・・」

 と一定の間隔で繰り返し叫ぶ。歩き方は極めてゆっくりだった。あたかも廊下が能の舞台で、兄が能役者になって独特な歩きを演じているような光景だった。私から舞台までの距離は二メートルあった。実家の玄関は比較的広かった。

 私は兄を見ながら何かを聞いていた。懐かしくもあり、嫌悪感を催すものであり、二度と聞くはずのないものが聞こえていた。

 それは、すでに亡くなった父の声だった。機嫌の悪い父が、酒臭い息で怒鳴った時の「かずしこ!」だった。夫婦喧嘩の直後の父が、幼い私に八つ当たりで怒鳴った「かずしこ!」だった。これまで兄の声が父の声に似ていると、少しも思ったことはなかった。だらしのない「し」の発声に至っては、父そのものだった。

 私は妙に落ち着き払っていた。澄み始めている自分の心が分かった。澄みきった心に唯一残るものが『憤怒』であることを予感しながら、私は12歳年上の兄をまっすぐに見ていた。

 

 私の人生において、兄の怒声を受けた最初の記憶。

「うるせー!」

 襖の向こうから兄が怒鳴っている声。子供の頃の一時期、私は布団に入って身体が温まると咳が出てしまう体質だった。襖を隔てた隣の部屋に兄が寝ていた。咳き込むと兄から怒鳴られるのが分かっていた。

「うるせーんだよ!」

 襖を開けて、こちらの部屋に顔を出して怒鳴ることもあった。それがすごく恐かった。咳が出そうになると胸をグッと詰めて我慢した。一旦我慢した咳を、たくさんの咳に分けて小出しにした。どうしても咳き込みそうになると、布団を出て兄から離れた台所に避難した。離れているので音を気にせずに咳を出しやすかった。台所は寒かった。身体を冷気に触れさせてから冷たい水を飲むと、強い咳き込みが消えることを体験的に知っていた。

 私の隣に母が寝ていた。兄が「うるせー!」と怒鳴ると、母は兄に向かって襖越しに「なによ!」とヒステリックにたしなめるだけだった。台所近くの部屋にはだれも寝ていなかった。自分だけをそこに寝かせてくれれば良さそうなのに、誰もその解決策を言わなかった。私自身、わがままのようで言い出しにくかった。

 咳が出る晩がどれほど過ぎたろうか。ようやく私は台所近くの部屋に一人で寝かされた。布団の中で幸せに包まれた。翌朝、兄から「一人だけ特別扱いされてるんだな」というような意味の皮肉を言われた。これが兄だった。

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