坊さんの説教 1 宮田のエッセイ館

ローマ法王の言葉
坊さんの説教 1

 私は寺の玄関に立たされたまま、坊さんから一時間も説教を受けた。説教の間中、あぐらをかいて座り続ける坊さんから「座れ」の一言もかけられなかったので、私はまさに『立たされたまま』という気持ちだった。そこはサイクリングの途中に立ち寄った寺だった。今から三十年以上前の話だ。

 

 北海道で過ごした学生時代、私は一人でサイクリングによく出かけた。行程は水筒一つを携行した日帰りだったり、寝袋やテントなどのキャンプ道具を携行した泊まりがけだったりした。数日間のサイクリングを終えると身体が一回り引き締まった。

 今思えば当時のサイクリングは、自分の足で遠くに行く喜びの他に、私にとって宗教的な業(ぎょう)に似た意味合いがあったようだ。汗を流し息を切らせる最中や到達した先で、私の心は何かを探していた。

 自転車で走っている時、民家と異なるたたずまいの建物が視界に入った。私は建物が放つ「気」を感じた。「気」に吸い寄せられるように近づくと、そこは小さな寺だった。私は庫裏の玄関を開けて奥に声をかけた。出てきた住職に言った。

「私はアフリカの飢えた子供たちが可愛そうで仕方がありません。しかし、どうする事もできなくて時々とても辛くなってしまいます」

 当時、アフリカの一部に飢餓が広がり、飢えて痩せ細った子供たちの映像がテレビ画面上に度々映されていた。出来ることならリュックサックに食糧を詰めて現地に渡り、子供たちの口に直接食べ物を運んであげたいと思っていた。

 初老の住職はあぐらをかいて座り説教を始めた。およそ一時間に渡った説教を要約すると、

『高野山での修行は厳しい。厳しい体験を通して人は強くなる。自分が強くなければ人の役に立つことは出来ない』

 である。そこは真言宗の寺だった。

 初対面で、しかも突然訪れた若造に対して熱心に説教をしてくれたことは有りがたかった。しかし一時間は長過ぎた。同じ内容の話を何度も繰り返したので15分くらいで十分と思った。説教の途中で退席する訳にもいかず、これもプチ修行かと思い、開放されるまでじっと立っていた。

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