閉会の言葉 1 宮田のエッセイ館

解決した心の問題
閉会の言葉 1

 スピーカーを通した女性の声が、客のいない静かな客席に広がっている。大講堂の客席に入ろうとしたところで、私はその声に耳を澄まして立ち止まった。明日ここで行われる式典の司会者が、式典進行の練習をしている声だった。滑舌の良い正しい発音で、しかも心地よい声に私は思わずうっとり聞き入った。

 私は司会者に面識がなく、『横須賀市在住の主婦でナレーションの経験がある』という程度の知識しかなかった。予算に限りがあり、プロの司会者を雇う余裕はなかった。そこで、式典関係者の知人に司会を依頼していた。私は、司会者の技量にたいした関心も期待も寄せていなかったので、彼女が発する綺麗な日本語を聞いて余計に感心した。

 最近、テレビ・ラジオに登場するアナウンサーでさえ、正しい発音ができない者が増えている。「い」の母音が「え」の音に近くなる、鼻濁音が濁音になる、「さ行」の母音が曖昧になる、などの不正確さが目立つ。「~しました」と言うべきところを「~すますた」と真面目に言っているので私は笑ってしまう。NHKのアナウンサーも例外でない。ひどいアナウンサーだと、訛っているように聞こえる。

 私は以前、惚れ惚れする綺麗な日本語に立ち止まったことがある。京浜急行の駅のプラットフォームに流れたアナウンスの声が耳に飛び込んできたのだ。「間もなく、上り快速が到着いたします。危険ですから、黄色い線の内側まで下がってお待ちください」

 プラットフォームで心地良い日本語に立ち止まり再び電車に向かった時と同じ足取りで、立ち止まっていた私は、声がする大講堂の客席へ足を踏み入れた。舞台の下手(しもて)で、一人の女性が客のいない客席に向かってアナウンスをしている。私は客席の階段を下りて舞台に近づき、彼女の声が途切れるのを見計らって挨拶をした。

「こんにちは」

 彼女の声に負けないよう溌剌とした発声を心掛けた。

「こんにちは」

 素敵な声が自分だけに向けられて、ちょっとした快感だった。お互いに自己紹介をした。

「こんなに大きな会場で司会をするのは久しぶりなので緊張します。上手くいくかしら」

「上手いですよ。講堂の中でウロチョロしますけど、私に構わず練習してください」

 彼女はHさんという。Hさんは若い頃、劇団に所属していた。正しい発音のトレーニングはその時に行われたようだ。今までにナレーションやアナウンスや司会の仕事を幾つかしてきた。彼女の声は某コマーシャルで一度テレビ放映されている。

 私は大股でズンズンと客席の階段を上りながら、練習を再開したHさんの声を背中で聞いた。大講堂の客席は800席ある。客席の後方寄りの所まで階段を上り、私は振り返って舞台を見下ろした。

「上手いですよ、すごく上手い。聞いていて心地いい、心配いりませんよ」

 聴衆の代表者を買って出て、舞台まで十分に届く声で言った。

「ありがとうございます」

 彼女のお礼は、それまでと違う照れくさそうな小さな声だった。

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