左脚の記憶 3 宮田のエッセイ館

解決した心の問題
左脚の記憶 3

 初めのうち、私は恐る恐る墓に足をかけていた。右足を墓石の下段にかけ、左足を思い切って墓石の中段にかけた。そして、塀の上を両手でつかみ右足で大きく塀をまたぐと、墓石の中段にかけた左足に全体重が乗る。左脚に覚えたゾクゾクとした感触が、大人になった今でも残っている。私は合掌していた手を下ろし、目を開けて深呼吸をした。

 深呼吸を繰り返して、気持ちを落ち着かせた。再び目を閉じて合掌し、ゆっくり息を吐き出す。暗闇の中で気持ちが水面のように静止した。墓に向かって言葉をかけようと思った瞬間、静止した気持ちの底深くから言葉が自然に湧き上がってきた。

―ありがとうございました―

 心地よい驚きだった。踏み台に利用していた無礼を謝るつもりでお参りしたのに、言えたのはお礼だった。もう一度墓に言葉をかけてみた。

―ありがとうございました―

 発しようとする謝罪の言葉が、お礼の言葉になってしまう。私は気持ちよさに包まれていた。本当の気持ちを表せた喜びだった。この気持ちよさは、空中に浮かぶシャボン玉のように、小さな刺激で壊れてしまう性格のものであった。小さな刺激とは、嘘の言葉を発することだった。私は「ありがとうございました」と、心が発するままに何度も繰り返した。

 私は合掌の手を解いて目を開けた。思考が止まり呼吸は早かった。エクスタシーを伴う放心状態であった。

 呼吸を整えてから、私は墓地の通路を戻った。10歳の頃、怖くて慌しく走った通路をゆっくり歩いた。墓前での快感が抜けきらず、まだ身体に残っている。踏み台にしていた墓に、大人の言葉で謝ろうと思っていたのに、言えたのはお礼だった。

 寺の山門を出て私は思い至った。

―踏み台にしていた墓に謝ったら嘘になる―

 と。

 謝罪は、同じ過ちを繰り返さないよう気をつける宣言でもある。しかし、この世を生きるということは、他人の生死に足をかけて歩むようなものなのだ。他人の犠牲に足をかけて歩むようなものなのだ。それらに足をかけないで人生を歩むとしたら、私は行き方をガラリと変えなければならない。出家するか自殺するか、あるいは山の中で孤独に生きるしかないだろう。だから私は、私が足をかけてきた人の生死や人の犠牲に礼を言った。お礼だけが心から言える言葉だった。(了)

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