死人は、
「お前たちにはオレが必要なんだ。社会の生贄としてね」
と言っていたのだ。
いつの世でも勝者がいる。勝者は敗者を求める。敗者はさらなる敗者を求め、一番の敗者は路上に惑う。競争社会のガス抜きとして、路上の不幸は社会が暗黙のうちに求めているものだ。つまり生贄。
生贄の血が絶妙に混ざった美酒の妙味。大人たちは怪しい目つきでこの味に酔う。大人ばかりか美酒の妙味は子供たちも知っている。同級生をいじめる子供たち。いじめられた同級生は、時に自殺して路上の屍となる。「酔い」を求める人間がいる限り、いじめは永遠に無くならない。死人はこのように教えてくれた。
インドで私が見た野垂れ死には、まさしくマザーテレサが、
「あれでは飼われている犬猫のほうがよっぽどましです。人間が犬猫以下の扱いをされていいわけがありません」
と嘆いた光景と変わりはない。
死界の言葉が分かりかけてきた私に、死人が口を開いた。
「おまえは犬を飼っている。おまえが犬を可愛がって感じる幸せに、オレたち生贄の存在が隠し味のように含まれているだろう。幸福感をジワッとひと味盛りたてる隠し味だよ。・・・気をつけろよ、オレはおまえをいつも見ている・・・おまえが動物を示して『命の尊さ!』なんてきれい事を言わないようにな。このオレ様を差し置いてそんなきれい事を言ってみろ。オレ様はおまえの脳裏におとなしく横たわっていないぞ。脳裏から脳ミソの中心に這いずっていって、おまえの脳ミソを死臭で満たしてやるからな」
私は死人に言った。
「それはよく分かっているよ。分かってるんだ。だからこそ言いたいんだけど、死人さん、そろそろ私から離れて、さっきテレビに出ていたクソババアにでも取り憑いてみたらどうだ。きれい事を言っていた方が私も商売上有利だからな」
死人は悲しそうな薄ら笑いになって言った。
「それは出来ないな。オレ様が住めるのは人間の心だけなんだ。彼女には心がない。彼女にあるのは感情だ。オレは感情には住めない。彼女らの感情はオレを拒絶するからな。その証拠に、彼女はすでにオレの横を通り過ぎて行ってしまったよ。無数の彼女が犬を抱いてオレの横を素通りして行くんだ」
私は死人に打ち明けた。
「あなたが道端でまだ息があった時、私は何かを期待してあなたの胸の動きを見ていたんだよ。何かを期待して、待ってたんだ・・・」
「知ってるよ。それでもおまえに感謝しているんだ。インドの路上で誰にも顧みられなかったオレを、二十八年間も住まわせてくれたんだから・・・」
語尾がかすれて、死人は黙ってしまった。あれ?死んじゃったかな、と私は心配したが、よく考えてみたら彼は初めから死んでいたのだ。死人は再び口を開いた。
「今年もよろしく・・・」(了)
この文章の原文は、今(平成27年)から8~9年前の神奈川県獣医師会会報新年号に掲載された。歳男を迎えるにあたり新年の挨拶を書け、という会報編集担当者のリクエストに答えた文章だったので最後を「今年もよろしく」で締めくくった。そうしなければ、新年の挨拶らしい言葉が無いまま終わってしまうからだ。私は、歳男や新年と言われても大して感慨が湧かないタイプの人間なのである。
今回、宮田のエッセイ館に掲載するにあたり、題名を「心の下宿人」に改めて、当時の原稿に若干の加筆をした。