「ないなぁー・・・入っちゃいけねえって、言われてたから。・・・だども、わざわざ寝に来る人が何人もあったんだと・・・」
「寝られなかったんだと・・・」
「朝起きたら、ひっくり返ってんだと・・・」
私は、その奇怪な部屋の様子をいつも想像した。天井の角に物の怪(もののけ)がモヤモヤと現れてくる。大きく開いた両足を鴨居に乗せて、背中を壁の角にもたれ、後頭部が天井に見え隠れする。とても嫌な顔つきで、寝ている人を見下ろしている。物の怪は、天井の中に吸い込まれるように姿を消し、また天井から現われる。モヤモヤと出たり入ったりしている。寝ようとする人を寝かせなかったり、寝ている人を逆さまにしたりするのは、この物の怪の仕業に思えた。私は、物の怪の気持ち悪さが、自分の回りにいる意地悪な人たちと重なって見えた。
祖母の話は、ひとつが終ると別の話が前触れなく不意に始まる。
「馬を連れて・・・川を渡ってんとな・・・」
「馬の足を・・・川の中から・・・何かが引っ張んだ・・・」
「よーく見たらば・・・カッパだ」
「カッパはな・・・人の足も・・・川の中から引っ張んだ・・・」
「気をつけねーと・・・川の中さ・・・引きずり込まれんだ・・・」
私は祖母の布団の中で足を縮めて小さくなった。布団の下の暗闇から伸びて来る手に、足をつかまれそうな気がした。
私は、他にもいろいろ遠野に伝わる話を聞いた。祖母はいくつかのレパートリーを持っていた。祖母が語ったこれらの話がブランドものの民話であることを、私は後になって知った。しかも、今になって思えば、祖母の布団の中という特等席で聞いていたのだ。
遠野は、地蔵をはじめ、さまざまな神の名を彫った石塔などが路傍の所々に立っている。遠野を歩き、注意深くあたりを眺めればそれに気づくであろう。
さて、皆さんは『泣き捨て地蔵』という遠野のお話をご存知だろうか・・・。ご存知の方は皆無のはずだ。なぜなら、祖母の実家に伝わる話を、祖母が私だけに語ってくれたものだからだ。遠野物語に関する本や民俗学的資料をあたっても、誰もお目にかかれないのだ。