白いピアノ 9 宮田のエッセイ館

白いピアノ
白いピアノ 9

 私は入って来たドアから外に出て、助けを求めるように声を上げた。

「ごめん、ごめん」

 斉藤は別のドアから外に出て来た。何かの作業をしていたようだ。彼は、私を案内して一緒に同じドアから入ったものの、急にやり残した作業を思い出し、照明のスイッチを適当に入れただけで出て行ったのだ。

 JR某田舎駅に着いた私が斉藤に電話をした時、ちょうど運送屋さんがピアノをここに運び込んだところだった。電話で斉藤は、待つよう私に言った。コーヒーを飲み干して待っていた私に、彼は、「お待たせ」と言って姿を現した直後、飲食店のトイレに爆進して我慢していた小便をした。運送屋さんが帰ってから、彼は取るものも取り敢えず、出すものも出さぬまま私を迎えに来たので、やり残した作業があったのであろう。

 風が吹き下ろした先の真っ暗な空間は、彼が照明のスイッチを入れ損ねたから暗かったのであった。斉藤は言った。

「この建物はねえ、前は医療用具を滅菌する会社の工場だったんだ」

 部屋入口の頭上から吹く風は、滅菌作業に従事する人が作業前に浴びて、作業服の塵や埃を落とすものであったようだ。

 照明に浮かび上がった部屋は、ピアノを塗装する作業場であった。黒い塗料の飛沫が、壁に大きく張られたビニールシートに受け止められて、黒い濃淡の模様を作っている。黒塗料の一斗缶がいくつも床に置かれている。同じ形をした背の高いステンレス棚の台数が目立った。2~3台はニスや刷毛やスプレーなどの塗装に用いる用具が置かれ、7~8台は、ほとんど使われていなかった。きっと、医療用具の滅菌作業で使われていたステンレス棚を、斉藤がそのまま引き取ったのだろう。

 ステンレス棚の近くに時代物のピアノがあった。鍵盤を照らす燭台がピアノから二本突き出ているのだ。電気がまだ十分になかった頃に作られたものか。ロウソクの明かりだけの部屋で、昔の人達はどんな音色を聴いていたのだろう。

「調律師で、ピアノの作業場や倉庫を持ってるのは、日本ではオレくらいかもな」

 と斉藤が以前言っていた。燭台がついたこのピアノが斉藤の手で再生されたら、聴いてみたいと思った。

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