白いピアノ 8 宮田のエッセイ館

白いピアノ
白いピアノ 8

 私は斉藤の車を下りて建物を見渡した。以前、食品工場で似たような施設を見たような気がした。コンクリートを敷いた地面を、大きな屋根が覆っている。この下に止めた業務用自動車に、出来上がった食品を雨に濡らさず搬入するイメージが湧いた。

「斉藤さん、中を見せてもらえる?」

「うん、いいよ。ここから入って」

 斉藤は幾つかあるドアのうち一つを開けた。物置場と化している通路を、物に気をつけて進む。

 少し行った先のスペースに、修理中のグランドピアノがあった。鍵盤と蓋が外してある。修理で取り外した部品を入れておくためであろうか、段ボール箱が、裸になったピアノの上に置かれている。ミカンでも入っていたような段ボール箱だ。すぐ近くにある数台のピアノが空間の大部分を占拠し、修理中のグランドピアノが隣の部屋に通じるドアを塞ぎ、それらがここを通る者の足元や身動きを狭めている。

 私は軽い息苦しさを覚えた。ピアノというのは、一台だけで相当な高さや広さを占領するのだ。

「おーい、斉藤さーん」

 どの方向に行っていいのか分からず、私は声を上げた。斉藤の返事がなかった。布団が置かれたピアノがある。布団は、一台の上に畳まれてあり、離れた一台の上には無造作に置かれている。一見すると寝具を人前にほっぽり出しているようで、行儀の悪さや荒(すさ)んだ生活を連想するだろう。横須賀にある斉藤の店に寄っても、ピアノに布団が乗っている光景を目撃することがある。

 実は、布団はピアノを傷つけずに運ぶ必須アイテムなのだ。トラックの荷台に乗せたピアノを布団で覆い、布団の上からベルトを巻いて、動かないよう荷台に固定する。しかしそれが分かっていても、私は人が使ってきた布団に生々しさを感じてしまう。布団が包み込んで来た疲労困憊の身体、病気の熱に浮かされた苦しげな寝息、男女の艶(なまめ)かしい営み、などなど。これらが混沌となって胸を突き、私は布団に目がやりづらい。

「おーい、斉藤さーん」

 私はもう一度声を上げた。やはり返事がなかった。後ろから付いて来ていると思ったら、斉藤はいなかった。

 私はピアノに囲まれて途方に暮れた。しかたがないので少しだけ戻った。引き戸があった。ここを開けて入っていけば、どこかに通じているのだろうか、斉藤がいる所に通じているのだろうか。私は恐る恐る引き戸を開けた。開けたと同時に、ゴーッという音をあげて真上から凄まじい風が吹き下ろし、真っ暗な空間が目の前に広がった。私は勇気を出して一歩だけ足を踏み入れてみたが、怖くなって、引き戸を閉めて引き返した。引き戸を閉めると風はピタリと止んだ。

「斉藤さーん」

 

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