電話の受話器を耳にあて、住所を書き留めている私の手が止まった。それまで受話器から聞こえてきた斉藤の元気な声が、地名の後に数字を一つ言ったきり止んだのだ。続いて住所表示の「〇番〇号」に相当する数字があると思い、私はペンを構えて斉藤の声を待っていた。少なくとも数字がもう一つあると思い込んでいた。私は、
「ん?」
と続きを促した。
「うん、住所はこれだけ」
「え!」
「ウヘヘヘ、これでおしまい」
斉藤はサウンドウェーブという会社を経営している。ピアノの調律、販売、修理を主に行っている会社で活動拠点は横須賀市にある。サウンドウェーブは以前、千葉県内に中古物件を購入し、これまでピアノの倉庫兼修理工場(以下、ピアノ倉庫)として使ってきた。
「宮田さん、千葉県って東京に近い割に土地が安いんだよ。これからは千葉県だよ」
と斉藤はよく自慢げに言っていた。言うたびに、彼は手刀を切るように構えた右手を胸の前で上下に揺らし、無邪気に微笑んだ。彼が興奮した時にみせる仕草だった。彼は生まれも育ちも貧乏なせいか、安価な物を話題にするとよく興奮した。
電話で私が斉藤から聞いていた住所は、千葉県にあるサウンドウェーブのピアノ倉庫の所在地だった。自宅のピアノの調律を斉藤に依頼するために電話をしたら、雑談となり、彼が次にピアノ倉庫へ行く日と私の休日が重なっていることが分かった。それを知り、私はサウンドウェーブのピアノ倉庫を見たくなった。これまで話に聞くだけで一度も訪れたことが無かったからだ。
私はピアノ倉庫を見学させてもらう約束をした。
斉藤と電話で話している時、私は義母の実家のことが脳裏をよぎっていた。義母の本家は福島県にある。住所は福島県南会津郡南会津町松戸原〇(〇はある数字)。町名の後に地名が一つ続いて枝番のない数字で終わる構造は、サウンドウェーブのピアノ倉庫の住所と全く同じであったのだ。南会津町松戸原の本家からたまに電話がある。いきなり、
「もすもす」
と言われるので、相手が名乗る前に何処からの電話か分かってしまう。「もしもし」の「し」が本当に「す」になっているのだ。「もすもす」と言われた途端、こちらの気持ちは穏やかになる。のどかな光景が受話器の向こうに広がるのだ。
数年前、私の妻が義母(妻にとって実母)を連れて南会津町松戸原の本家を訪れた。義母にとって五十数年ぶりの訪問だった。義母は子供の頃、戦争中に縁故疎開で本家に行き、そのまま20歳頃まで本家で暮らしていた。歳とともに足腰が弱くなった母を見て妻は、母がまだ動けるうちに温泉旅行を兼ねて福島の本家に連れて行ってあげようと思った。
本家訪問の前、妻は現地の交通手段の下調べを入念に行なった。妻は本家の住所地に最も近いバス停の場所を、現地の観光協会に電話をして尋ねた。
電話に出た係員の男は、標準語圏からかかってきた電話の相手に向かって、事務的なよそゆきの言葉づかいになった。彼は自身の言葉を標準語化する努力をしているらしかった。ところが聞く方にとって、彼のイントネーションは福島弁そのものであった。
「あのね、バス停はあって無いようなものなんです。手を上げれば、バスはどこでも止まってくれますすね、降りたければ、どこでも止まってくれます。都会ではありえないですけどね、エヘヘヘ」
係員の男は照れくさそうに笑った。聞く方にとって笑い声さえ福島弁を含んでいた。
「まだ福島へ行ってないのに、もう福島旅行が始まっているみたい」
電話を置いた妻は、はしゃいで言った。